海はあちらですか

読んだ本のこと、仕事のこと、ふと思ったことを思うままに書いてみたいと思います。自分の記録と整理のために。

好きなもの

とりあえず今は人目は気にせず好き勝手書いてみる。今回は自己分析として、好きなもの、気になるものをあげてみる。

とくに気になったものが出たら掘り下げてみよう。

・食事(白ごはん、素材、お茶、料理)
・在来種(種、育ててみたい)
・アウトドア(カヌー、登山、キャンプ)
・首都高(運転する、構造物、夕方)
・工場、団地、廃墟、給水塔
・お祭り(奇祭、各地域のお祭り)
・犬、動物
・読書(小説、井伏、太宰、開高)
東洋医学(整体、薬草)
・体の使い方(少林寺、ソケリッサ)
・お酒、飲み会、ほろ酔い、飲んでる人
・歌、歌うこと(YUKI中島みゆき
・仕事(会社、お客さん、人)
・圏外、自由
・静かなところ、風があるところ
・民族衣装、民族音楽、伝統工芸
・踊り(バレエ、民族舞踊)
・焚き火(お酒)
・変な人、ぶっ飛んでる人
・お寺(東寺、飯高段林)
・滝(近くで見る)
・苔、石(色、さわり心地)
・温泉、布団

そんなもんかな??
こんなもんか。なんか簡単だな。

なんか後で読み返して気になったやつを深ぼりしてみよっと。

ワークライフバランス 自分の場合

さて、ワークライフバランスを自分なりに考えてみたいと思う。先々どんどん変わるかもしれないけどね。

はじめにライフにおいて大切にすること。

まずは健康を大事にすること。あとは後悔しないこと。つきつめればこの二つかなぁ。健康はそのまんまだからいいとして、後悔は中身の検討が要りそう。

後悔しないってことは後悔する判断をしないってことなので、予防の為には必要な判断材料をちゃんと持つこと。

最近自分にとって大事な欲求に「本当のことを知りたい」というのがあるな、と気づいた。多分これは判断を誤って後悔しないための欲求だと思う。そこでいう判断とは何に関する判断かというと、自分の人生もそうなんだけど、あたしやはり後世への責任というのはあると思っていて、その意味でも判断を誤って後悔したくないなぁと思う。

後世への責任て思うのは、やっぱり同世代でも世代間でも公平が重要だと思うから。ということは今の人間が持っている選択肢をなるべく残すこと。不可逆的な変更はなるべく避けること。まぁ地球の歴史には大きな流れがあって、なるべくしてなることも多いかもしれないけど。

とりあえず日々の生活に影響が大きいのは環境のこと、政治のこと。そうすると判断材料として必要なことは、環境や政治などに関して自分の納得できる判断材料をちゃんと持つこと。でも今は全く出来てないけどね。とにかく何が本当のことか知らなすぎる。

あとはその判断に基づいて後悔しないような生活、行動をしていくこと。あたしのやりたいことは判断材料を集め続けてそれに従って行動し続けていくことなのかも。理想としてはね。そういう「状態」であり続けること。中身はその時々で変わったとしても。

そう考えると、ワークは情報収集の窓口でもあるし、行動の表し方のひとつともとらえられるな。ちなみに対価をもらえるってことはきっと何か課題解決してるはずなんだけど、あたしの好みとしては贅沢品より必需品を扱いたい。

あとは評価されるべき商品を、その価値をちゃんと伝えて売りたい。サービスなら「必要なことなのに難しいこと」を支えるサービスがしたい。別に大きく稼がなくてもいいけど、正当な対価をもらいたい。

テーマからズレてきちゃった。

結局はライフの中で大切にしたいのは、その時納得できる責任ある行動を取り続けること。ワークは情報収集と表現の手段にできたら嬉しい。お金は正当な範囲で必要。その時の仕事が自分の価値の表現として納得行くものならバランスなんて考えずにその時々にベストな打ち込み方を出来たらいいな。

今の仕事は納得してる。けどこれからもそうであるためには自分で仕事を作っていく努力が必要。どんな仕事を作るか、作れるか、が今一番課題。

まぁ今回の考察で課題はとくに解決しなかったけど、人生の目的が「状態」であることは発見だったかも。目標設定型アプローチが苦手なのはこの辺と関係あるかも、、?どうしても目の前のことに精一杯取り組んで結果は後からついて来る!というような体当たりアプローチになりがち。まぁいっか。

なんかクソ真面目な上にだらだらした話になりすぎちゃった。完全に自分用の備忘録だね。なんかすごくねむくなってきた。ぼちぼち寝よっと。

ワークライフバランス

田んぼで感じたことの三回目はワークライフバランスについて。

日頃重要だなぁと思いつつ、適切なバランスが分かりません。ちなみに一昨年くらいまでは、仕事はやればやっただけプラスだと思っていたし、そもそも食べてゆくのがそんなにラクな活動であるはずないとも思っていたから、ずいぶん贅沢な言葉だなぁと考えていた。

最近田んぼに行くことを通して考えるのは、ワークとライフのバランスっていうより、ライフの中でワークに何を求めるかを考えるべきなんだろうなぁと言うこと。

そもそもlifeの意味って確認したらいっぱいあって、中で当てはまりそうなのは、生活、生きがい、人生、あたりだと思うけど、どっちにしてもworkの意味の労働、職、勤務先と並べたときにバランスっていう感じじゃないなぁと思う。完全に内包してるもんね。

移住して田んぼやってるひとにとって田んぼはワークなのかどうか、そもそも分からないけど、ワークはライフの中で必須の衣食住を確保するための手段。だから強いて言えばワークライフバランスとは手段が目的化したり、手段に振り回されたりしたくないよね、という話かも。

そのうえで、通常はワークとして何かを提供して交換に衣食住(たいていは現金として)を得るのだけど、何と交換するか、その提供するものの中身によって、あわよくば承認欲求を満たしたり、成長の満足感を得たり、できたらより良いよね、ということなのだと思う。

ライフにおいて大切なものは何かってのが一番重要だね。まぁ当たり前か。それによってライフ全体の中でワークに何を求めるかが見えてくるはずだし、そのために何をワークにすべきかが具体的になるはず。だから求めるものによってはワーク一色のライフも幸せかもしれないし、ワークもライフも境目の無い生き方もあるはずだし。

まぁ思い通りにはなかなかいかないものだし、そんなに甘くもないんだろうけどね。

けどまぁ自分の人生だからね。考えてみたほうがいいよね。あたしにとってライフ、生活・人生において大切なことってなんだろうなぁ。

今更だけどね。それは次に考えてみよう。


写真はなんだかノスタルジックなゲーセン。そういえばギャンブルはギャンブラーにとってライフでもありワークでもあるのかも笑。絵描きにとっての絵もそうか。まぁギャンブラーでも絵描きでもないから分かんないけど。しかし、もしそうならそういうサラリーマンもあり得るのかなぁ。

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地下室の手記 読了

今、ざーっと読み終えたばかり。
とくに読み返しもせずに書く。

主人公の執拗なものの言い方に所々飽きるが、執拗さは必要なのだから仕方ないのか。

とにかく読んでいて苦しくなった。過剰な自意識にさいなまれつづける主人公がみじめで滑稽。でも、すごく自分とも重なる部分もあって、後半、だから苦しくなる。(もちろんここまでじゃないけど)

こういう人恋しさと人への恐怖の混乱とか、人の目に対するの過剰な意識とか、自己肯定できなくて爆発しちゃう感じとか、時代や国籍に関わらず共通なのかしら?

でも田んぼで作業して、美味しいもの食べてると、すごく肯定感が高まる感じするし、都会の人間の特性のような気がするなぁ。いつから人はこうなんだろう。

本題では無かったけど気に入った記述。「人類がこの地上において目指しているいっさいの目的もまた、目的達成のための不断のプロセス、言いかえれば、生そのもののなかに含まれているのであって、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。」このあたりはナウシカ原作とすごく重なって感じた。崇高な所への到達が生き物の価値ではなく、どんなに愚かでも、生きているという営みそのものに価値?が有るというような。

「人間は到達を好むくせに、完全に行きついてしまうのは苦手なのだ。~これはおそろしく滑稽なことに相違ないが。要するに、人間は喜劇的にできている」歴史が良くも悪くも繰り返すことは喜劇と言えないけど、こういうことなのかも。

後半はもっと個人の内面の苦しさが主題。この辺は「人間失格」も再読したい気分。もともと人間失格の後書きにタイトルが出てきたから読んだのだけど。全体的には人間失格の方がずっと好きだった。ヒステリーにもならないような弱さとかわいさがある気がして。

けど、どっちにしても現代人に共通の不安なんだと思う。あたしはすごく共感。あと出てくる女の子の母性にもすごく共感。あたしの友達とかみんなは共感するのかな。全然しないのかな。ちょっと聞いてみたい。

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よく使う機能

最近田んぼにいって思うことの二つ目は、都会でずっと生活するのはつらい!ということ。

あたしは自覚的に都会生活の禁断症状があって、本当にたまにだけど、ちょっと冴えない日などに、普段使っていない五感と感情を使いたい衝動に襲われて自分でも驚くことがある。またふと、居場所のなさや、自分自身の実態の希薄さに不安になったり、心が感じづらくなってすべてがどうでもいい気分になったりする。

昔読んだ辺見庸の独航記の中に、全身サランラップにぐるぐる巻きにされて過ぎゆく世の中の流れを人ごとみたいに傍観する、て言うような表現があったような無いような、、。けどそんな感じ。

思うのは、都会で仕事をする生活においては人間の色々な機能のうち使われる機能に極端な偏りがあるということ。論理思考と対人調整、時間と感情の管理が最優先。
逆にそれ以外の、身体感覚や自分らしい感情の起伏、自分だけの自由な時間や空間がすごく足りていない。

これまで山や川に行くたびに、生き返るような自由な感覚に毎回驚いてきたけれど、田んぼに定期的に通うようになって小出しに色んな機能が使われて感情が解放されるせいか、都会に居るときも少し力が抜けたというか、なんか安心感を持って居やすいようになった。

やはり人間という動物の本来の生息地は都会ではなくて野山なのだと思う。

あと、うまく言えないけど時間感覚も関係していると思う。田んぼで作業中に時間気にしないのもまぁそうなんだけど、何回か通う中で、稲の成長や季節の移り変わりに合わせて自分の時間感覚を定期的に調整できていて、その事が安定感につながっているように感じる。

ちなみにここらへんのことは、身体がないがしろにされている、という話の流れでも一度考えてみたいテーマ。

以上、田んぼの感想第2回は都会は人間にあってないよ、ということ。

第3回はワークライフバランスについて思ったことを書いてみよう。


写真は最近よく行く田んぼの風景。
木陰は風が抜けると涼しい。

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会社で働くこと

最近、会社を辞めて田舎に移住し田んぼと畑で働きながら生きてる人たちの話を聞く機会がちらほらある。あたし自身も田んぼを始めてみた。そこで感じたことをいくつか。

まずは、会社もいいところあるよ!
ということ。

こないだ社内の嘱託さんがガンになって治療のために入院した。その時は有給をとってもらい、戻って来れるまでみんなでしのいだ。小さい会社だし残る人にいつもより負荷はかかったけど、まぁやりくりできないわけじゃなかったので。

その時、社長の言ったのが「こういう時のために会社があるんだから、安心して休んでもらわないと」ということ。

会社はセーフティーネットでもある。普段は定期的な収入源になり、いざという時、十分かはわからないけど有給があって、戻ってくる場所があって、支えてくれる仲間がいて。

また、一人では苦手なこともあるし、できることに限りがあるけど、みんなで得意なことを持ち寄ればより高い成果を出すことができる。一人で全方面の能力を求められるとツラいけど、組織になることで一部の能力の提供でも生きる糧を得ることができる。その意味では会社は相互扶助の仕組みでもある。

結局、会社というのはただ仕組みのことを指して言うのであって、仕組み自体の善し悪しはなく、運用次第だと思う。

中学の時、少林寺拳法をやっていたのだけど、その中で「人、人、人。全ては人の質にある」っていう言葉があって、本当にそうだ!って思ったのを今もたまに思い出す。

これは多分、人格の善し悪しを言いたいのではなくて、何事も人が運用する限りは人次第で良くも悪くもなるということ。

前向きに捉えればどんな仕組みも運用で良い活用ができるということで、厳しく捉えれば仕組みを変えたところで抜本解決にはならないとも言える。実現や維持にはきっとたくさん努力や工夫が必要。

あたしは会社に感謝もしてるし好きだけど、このコンディションは今たまたまのバランスの中で成り立っているだけで、収益、メンバー、社会情勢など常に変わる環境の中で、調整しながら維持するのはすごく難しいことだと感じる。

また体や心を壊すまで働いてつらい目にあってる人が居るのも事実。仕組みは運用次第とは言え、資本主義世界においては原価を下げて収益を増やす事が正攻法だから、構造的にそうなりやすいのは仕組みそのものが持つ課題。

長期的に外との競合で勝ち残りつつ、中のコンディションを維持するのは至難の業なのかも。でもまぁ、理屈上不可能なのではなくて、絶妙なバランスとるのが難しいというだけなら、トライする価値あるのではないかと思う。

と言うわけで、移住者の生活に魅力も感じつつ、かといって会社での挑戦も捨てられず、ぼんやり考えた雑感でした。

以上です。

次は、「とは言え都会の中で生き続けるのはつらい!」という感想。

写真は飛行機から見たベトナム市街地。
飛行機から見下ろす風景は面白い。

まぁ今は世界が相手の勝ち残り戦だからこんな仕事感じゃ甘いって言われちゃいそうだけどね。
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日本のわたし

仕事で、色々な市役所に行く。
茨城県を回った。

茨城でなくてもそうだが、この時期の日本はとにかく田んぼがきれい。25センチくらいになった青々とした苗の間に水がひかって、一面に広がっている。 

風もほどほどに涼しくて、車で走っていると、うまくいえない幸福感に満たされる。

ある役所には人口減少対策室というのがあった。その前に行った青森の役所でも、とにかく人が減る見通しで先行きは暗いと。

こんなに豊かな国土があるのに、多くの地域が衰退し自治体が消えていく。どうするのが良いんだろう?もちろん誰にとって、というのもあるけど。

以下運転しつつふと考えたこと。

思い切って居住地域を狭める。
実践は少しずつはじまってるけど、そんなペースじゃないよね、きっと。あとその場合、人の居なくなった地域は山に飲み込まれていくのかなぁ。人工林もそうだけど、天然林に戻す取り組み、どんなだろ。ちょっと調べてみよう。でもどう考えても今のインフラ整備し続けるのは無理だよね。

とはいえ、ふるさとの村や街がなくなるのは、やはり寂しいよね。まぁそれも大きな流れか。国破れて山河あり、ってたまにすごい強く感じる。

あと国ってなんだっけ、と思った。
調べたら、
1 国家。また、その占めている地域。国土。
そして国家の三要素、主権、領土、人民。懐かしい!学校で教わったわ。そういえば!

なんか今の日本、領土と人民はわかるけど、主権はどうなんだろ。選挙はあるっちゃあるし、投票行くけど、主権在民はあんまりしっくり来ないなぁ。

その場合国益ってなんだろう。
それ考え出すと幸せってなんだろう、っていうことだよね。人それぞれと言ってしまえばそれはそうだけど。それじゃ方針の検討が出来ないもんね。

なんか何にも答えがわからないまま、田んぼの青さが目にしみる。まずは自分がどうしたいかだね。豊かな国土。迷子の主権。その中の小さな人民。わたし。もういい大人だしなぁ。大人になったらもっと正しいことが分かると思ってたけど。違ったな。

写真は青森のガードレール。
アイデンティティを感じます。

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