お花見に行って思うこと
お花見に行ってきた。
上野公園。毎年恒例で友達同士で集まるが、今年は珍しく満開のタイミングにばっちり。お花見客の数もすごかった。
お花見をしていて毎年思うこと。飲み屋で飲んでいてもそうなんだけど、他の人達のグループも楽しそう。酔っぱらって声が大きかったり、千鳥足だったり、あらあらと思うことはあるけれど、そうやって、会って飲みたくて、飲んでると楽しくなっちゃうような仲間がみんなに居ることはいいことだなぁと思って、なんだかほっこりする。
まぁあたし自身がお酒が好きで、大学のころはまぁまぁやんちゃに飲んでたこともあるから、つい楽しくなっちゃう気持ちはすごくわかる。毎年集まって桜を見ながら近況の話をしたりして、今や飲み方もすっかり落ち着いてしまったけど、少しくらい盛り上がりすぎでも楽しそうな人を見るのは嫌な気はしないなぁ。
人間観察もたのしい。海外からきて「お花見」の写真を撮っているひと、ナンパしてる若い子たち、カップル、会社の同僚、大学生。みんな思い思いに過ごす。その人間模様を見ているだけでもおもしろい。花を見たり見なかったり。おじさんたちの登山仲間グループからは、彼らが引き上げるタイミングで残っていたおつまみとお酒をおすそ分けにもらったり。普段あまり気軽に話しかけない知らない人同士の垣根が少し下がるのもお花見の魅力かも。
あとは人間、春が来るとうずうずして外に出たくなるよね。お花見だけは外で飲んでても冷ややかに見られない特別な日。外で飲むのは最高に気持ちいい。天気が良くて、日なただったら、ものすごく幸せで贅沢な気持ちになる。この瞬間、安全で、仲間がいて、心地よくて。缶ビールだけなのになんてステキなこと笑。
まぁそのためにはごみとか、場所取りとか、節度を持ってきちんと対応することは必須なのは大前提として。それでもこのお花見が、年とっても友達と続けられたらいいなぁと思う。
ところで、この時期街を歩くと桜が町じゅうに植わっていることに驚く。花が咲いてなければ気づきもしないのに。そんなソメイヨシノの寿命は50~60年らしい。日本全国の戦後に植えられた桜はどんどん寿命を迎えると思われる。今後もエリア計画をちゃんと立てて桜が見られる場所が維持されていくといいな。お花見が好きな私としては、募金とかお手伝いとかなんか必要ならやりたいと思うなぁ。この日本の幸せな風景が今後も続きますように!
ちなみに、せっかく行ったのに写真は撮り忘れた。目に焼き付けたからいいのです。
仕事をかかえちゃってる人をみて
本当にいまふと思ったことをだらだら書きます。今、目の前でタスクをふれずにパンパンになってる人と接する機会があって思ったこと。
仕事をふれない人ってマジメで責任感の強い人が多い。「こんな曖昧な状態じゃふれない」とか「こんな雑務みたいなこと人に頼むのは申し訳ない」とか「まわせていないのは自分の能力が足りないせいだ」とか。
もう、この時点でいいやつだと思う。不器用なんだけどマジメ。
そんな人に言いたいのは、手伝うから、どうなっちゃってるのかざっくばらんに相談してほしい、ということ。キレイにまとまってなくても、何をしなきゃいけないのかすら分かんなくなっちゃってても、一緒に考えましょう。そうやって、責任感もって頑張らなきゃ、って思っている人の一生懸命さは伝わっているはず。うまく伝わってなくても、頼ったら聞いてくれるはず。みんながそうじゃなくても、そういう人も絶対にいる。
忙しくなるのが嫌な人も世の中多いと思うけど、一方、素直に頼ってくれたらうれしいっていう人も多いと思う。頼む相手に敬意と心遣いをもっていさえすれば、分かった、手伝うよ、一緒にがんばろうって言ってくれる人はいると思う。
あまり抱え込まないように。無理しすぎないように。頭もぐちゃぐちゃで体も精一杯で、しんどいけど休んでるヒマもない、頼む準備なんてできない、ってなっちゃってる人は、誰かに泣きついて、ぐちゃぐちゃなので整理を手伝ってください、って言ってみてほしい。健康第一、自分を守ってあげてください。人に頼ってみてください。誰かはきっと見てくれているはずだと思うので。
同じ大変さでも、味方がいると思えれば少なくとも気持ちは少し楽になると思うし。最悪、もし同じ会社で頼れるひとがいなかったら、家族とか、友達とか、たまたま飲み屋で隣の席になった人とか、話だけでもしてみると少し楽になるかも。つぶれちゃう前に。ブルーハーツも言っているけど、世の中悪いひといるけどいい人もいる。たくさんの人間がいるから。
今日はシリアでは爆撃が始まった。色々な種類のつらい目に合っているひとが世の中たくさんいると思う。日本でも生きるのに精いっぱいで働いてる人がいる。なるべく多くの人が今日もよく眠れるように祈るばかり。
プロフェッショナル仕事の流儀 介護士 小山珠美
仕事とお金について思ったこと
YUKIの歌詞が好きだ。ポイントは母性とフィジカルだと思う。
みんなにとってどうでもいいと思うけど、あたしはYUKIが好きだ。営業で車で遠出するときは大体いつもYUKIか中島みゆきを熱唱または本気練習している。
YUKIが好きっていう時に、あたしはやっぱり歌詞がすごく好きなんだけど、歌詞の何がそんなに気に入るのかって考える。そうしていつも思うのは「母性」と「フィジカル」について。ちなみに、中島みゆき含め古めの歌が好きなのは人生をうたった歌詞が多いから。恋愛の歌もどこかに人生そのものの悲哀があって、しみじみしてしまう。それに引き替え最近の歌は恋愛一色すぎやしないか。歌にしたい心の動きって本当はもっと多様では、と思う。
まぁそれは良いとして、YUKIの歌詞について。
巷では女子力女子力って言ってネイルしたりサラダ取り分けたりしているけど、(それも全然良いことだけど!)YUKIみたいな母性を前にすると、ほんとそんなことどうでもいい、重要なのは愛情だ!って思えてくる。
例えば好きな歌詞
立ち上がれ 私がついてるわ
笑えないのは 雨のせいじゃないわ
生き残れ 遊びを続けよう
美しいのは 流す涙
「スタンドアップシスター」
もしくは
迷子のハートブレイカー出ておいで
今宵もスウィングさせてあげよう
昔話に花が咲き 前に進めないあなたも
悲しい気分は 吹き飛ばしたげる
このひととき忘れていいよ
「AIR WAVE」
さらに
その手にもつもの 半分にしてあげよう
頭の中をきれいにしてあげよう
3番目でもいいのよ こわがらなくていいのよ
世界中の人があなたを憎んでも 亡くした人を想い泣く夜も
いつもそばにいるから 体ごと伝えてよ
「ふるえて眠れ」
もう、恋愛感情を超えた愛情。これは彼氏や夫に向けられるものを超えて世の中の生きとし生けるものに対する保護したい欲、母性です。原作ナウシカ的な。
さらに上の歌詞もすでにそうだけど、母性がすごいフィジカルなものと表裏一体になってあふれてくる感じ。まさに「心と体はひとつだ」という感覚。からだは愛情表現に使えるもので、全身でうけとめて許して、守る、という強さのある愛情。
ジュディマリの時も好きだけど、母性の強さというか愛情の奥行きはYUKIになってからどんどん全面に出てきてる気がする。
実際自分もがっつり恋愛しているときって、守りたいっていう本能が強くなるのを感じるし、それがフィジカルな感覚と近いっていうのはすごく実感できる。母性もフィジカルも本能だと思う。その動物的な愛情表現が感覚的に自分の感情と一致しちゃって、ファンタジーで抽象的な歌詞なのにすごいリアルな感じがしてしまう。
あたし自身はよく男っぽいと言われる方だけど、こういう共感の瞬間にやっぱ女なんだなぁと思う。(まぁ感じ方は人それぞれで、性はグラデーションですから一概に言えないし、男の人や他人がどのように感じてるかは本当の意味では比較・確認できないので、あくまでも自分の体感です。)
もうひとつ思うのは、この場合のフィジカルな感じは性的な意味だけじゃなくて、もっと皮膚を通して世界と接していて心ごと世界に開かれていくようなそんな身体感覚。
たとえば
陽だまりのにおい 雨上がりの空
与えられたのなら 受けとめよう
しかられてみよう 愛されてみよう
心の底から 信じてみよう
「歓びの種」
だったり
私はこのまま 信じてゆけるわ
愛の強さゆえ 優しき獣ゆえ
花咲く丘まで 口笛吹いていこう
喜びを抱いて 見果てぬ空の上
「プリズム」
身体的な心地よさと愛情がごっちゃになって心もからだも世界にあふれ出していっちゃうようなそんな身体感覚。これが個人的にはめちゃくちゃ共感できる。たとえば、春で、もう風が気持ちよくて日向があったかくて大好きな気持ちが昂って、もう世界中にやさしい気持ちになっちゃうような。
って、そういえばこれ書こっかな、と思ったのはaikoの歌詞に関するブログ読んだからなんだが、aikoとYUKIとはすごく対照的なイメージをもってる。aikoの恋愛は目の前の相手に、一緒にいる瞬間に、その一点にひたすら集中していく視覚的な愛情表現で、YUKIの愛情は空間的にも時間的にもひろがってあふれていっておおい尽くしてしまうような皮膚感覚的な愛情表現。
勝手な意見だが、どっちの歌詞にもめちゃくちゃ共感できる!って人は少ないのではないか・・・?良い悪いではなくタイプの違いだと思うけど、共存しないような気がする。そうでもないかしら。
まぁ色々勝手に言ってみたけど、YUKI本人がどう考えてるか知らないし、ライブも行ったことありません。もっとすごいファンの人、生意気言ってすみません。一度ライブ行ってみたいなー。
まぁそんなとこです。寝ます。
人間の第六感。あたしにある気がするけど証明しようがない。
数週間前に買っておいた銀杏をほったらかしてあったのだが、ふと思い出して炒ってみることにした。銀杏は子供のころ大嫌いだったが、最近はもっぱら好きで飲み屋で良く頼む。けど自分でやったことなかったのでためしに。
参考にしたのはこのレシピ。
秤を出すのがめんどくさかったので、目分量でやってみたけど結構おいしくできた。けど、キレイに炒り上げること考えると塩は入れずに炒って、後でふった方がよいかも。
さて、それはさておき、炒った銀杏はおいしかったのだが、3粒くらい食べた時点でなんとなく違和感を覚える。とくに症状は何もないけどお腹なのか心なのかどこからともなく警戒心がわいてくる感じ。もしかして、銀杏て毒があったりするのかな・・・と、ふと思い調べてみるとやはり毒性が。
なんと!!
けど40粒以上食べないと一旦大丈夫そうである。そもそも気のせいだよなーと考えながら、続きを食べる。今回炒ったのは20粒くらい。安全ライン内だが、食べてる間からどんどんお腹に不穏な気配が。いろんなサイトによると発症は数時間以内とのことだが、今回は食べて30分もたたないうちにお腹がくだってしまった。アウトでした。
正直、今回のことが銀杏が原因なのか特定は出来ないけど、お腹の丈夫さに自信のあるあたしが、原因なしにこんなことになるとは考えにくい。
そこで思い出したのが以前海外でペットボトルの水を飲んでお腹をこわした時のこと。その時も一口を飲み込んだ時点で、あれ?これやばいかもしれない・・・とどこからともなく違和感がわいてきた。胃が急速に冷えて縮まるような感覚。そして結局悲惨なほどにお腹を壊した。当然水だから味がおかしいわけでもないし、自分でもなぜそう気が付いたのかわからない。
それ以来、海外で水を飲んだ時はほんの少しだけ飲んでみて、違和感を感じたら飲まないようにしている。実際、違和感を感じて一口でやめたときは軽傷で済んだ。
あたしのお腹の一体何が、何の情報をもとに警告を出しているんだろう・・・。お腹がくだるってことは壊れるのは腸なんだと思うけど、警告が出るタイミングはもっと早くて、どう考えても腸には行ってない段階。胃にそういう機能があるのだろうか・・・。誰か知っていたら教えてほしい。
タイトルに第六感とか書いたけど、ここまで書いてこれは第六感ではなくて、完全フィジカルな警告システムの話だと気づいた。胃の器官なのか、細菌なのか、いずれにしても六感ではないな。
ただ六感っぽいことで言えばもう一つある。あたしは睡眠がかなり深い方で一度寝たらいつもの目覚ましの時間までまず起きることはない。けど、不思議なのが地震の時。これは証明したくてできないんだけど、地震が来るときはたいてい、起きてるのと寝てるののはざまくらいに意識のある状態になっていて、暗いなぁ、目が覚めたなぁ、何時だろう、もう少し寝るかなぁ、とかぼんやり考えていると地震が来る。そうして、あ、またか、地震がくるから目が覚めたのか、と思う。
これはなんなんだろう。ナマズなんだろうか。それとも本当はもっと先に揺れ始めていて揺れたから起きたのだろうか。人に話すとそう言われる。けどそんな気が全然しない。起きた時はいつもまだ全然揺れていない。1~2分だろうか。少なくともそれくらいはもやもや意識があって、そのあとに揺れ始める。
どうでしょう。そういう人、他にも居ませんか。
これがあると毎回、これって第六感なのかも、動物は先に気づいて逃げたりするっていうもんな。あたしはほんの1分前で逃げようもないけど、人間の中にもわずかに野生が残っているのかも・・・なんてちょとしたロマンを感じるのです。ずっと前から気になってたんだけど、ふと銀杏のことで思い出したので書いてみた。
そういう人いたら、もしくはそういう仕組みに詳しいひといたら教えてください。
ダイアログインザダークに参加してきた。おススメです。
参加者は完全に光を遮断した空間の中へ、グループを組んで入り、暗闇のエキスパートである視覚障がい者のアテンドにより、中を探検し、様々なシーンを体験します。その過程で視覚以外の様々な感覚の可能性と心地よさに気づき、コミュニケーションの大切さ、人のあたたかさなどを思い出します。1988年、ドイツの哲学博士アンドレアス・ハイネッケの発案によって生まれたダイアログ・イン・ザ・ダークは、これまで世界39カ国以上で開催され、800万人を超える人々が体験。何千人もの視覚障がい者のアテンド、ファシリテーターを雇用してきました。日本では、1999年11月の初開催以降、現在は東京・外苑前の会場と、大阪「対話のある家」を中心に開催、これまで約19万人が体験しています。